M7839 日々思うこと

幾日か後に見返して笑うため。

2021年2月19日に思ったこと

新しい物事を受け入れられる人はかっこいい。


色々なことに興味を持てて、好奇心旺盛で、とりあえずやってみる。試してみる。

そういう人はいつも楽しそうだ。


歳を重ねれば重ねるほど、どんどん出来上がっていく人が多い中で、経験を積んでいけることは偉大だ。


仮説、実験、検証、考察。

色んなことをやっていきたい。


今が楽しい。


2021年2月13日に思ったこと

一人じゃ何にもできない。

正確には、誰かの為じゃないと全力を出せない。


この頃は時間があると台所を占拠し、せっせとお料理をして、休日の昼食当番のようになっている。自分一人だけだったら色々な料理を作れたかは怪しい。

インターネットなんかにあるレシピも、スーパーに並ぶ食材も大抵は二人前以上のボリュームだ。そんなにたくさん食べられない。

有難いことに食べてくれて、感想を伝えてくれる人がいるから楽しくお料理が出来ている。


お洋服を選ぶのも、誰かと出かける時は同行者が恥ずかしくないようにお洒落ではないにせよ、そこまで酷くはない服装を心がけている。

今日は久しぶりになまぐさなカッコで外出した為にずっとソワソワしてしまった。

(誰も僕のことなんて見ない癖に)


曲を作ることもデモ段階では投げやりなもので、バンドで合わせてみてからようやく本腰を入れて知恵を絞っていくことになる。

ベース、ドラム、もちろんギターがダサくみられるのは嫌だもの。


こうしてみると、やはり何をするにも誰かの存在が必要不可欠であって、でもその頑張る理由の根元には「自分がいい思いをしたい」というのが常に張り付いている。


誰かの為、じゃなくて、自分の為に生きてる僕には人生設計なんてのはとても遠い話で、目下損得勘定無しのピュアなエネルギーを見つけることが必要なのかもしれない。



2021年2月9日に思ったこと

代わり、ってどこにでもいる。


何かあった時の代わり。何もなくても代わり。僕じゃなくても、君じゃなくても代わりがいる。


代わりを充てがわれるモノには共通点がある?

「その場にある理由」が一つしかないモノだ。

かっこいいだけ、のモノ

便利なだけ、のモノ

安かっただけ、のモノ


すでにある特性+ の別の何かが出てきたら「〜だけ、のモノ」に代わりを充てがうことができる。


僕は誰かの代わり。でも僕の代わりは誰もいない。

鏡に向かって堂々と言えるのか。


もう代わりの目星はついているけど。


2021年2月6日に思ったこと

「じゃあ、〜時にトンネルで」


指定された時刻ぴったり到着くらいで家を出たからちょっと申し訳ないな、なんて思いながら行ったら当然誰もいなかった。


なんとなくで作った曲の骨組みにラップをのせて遊んでみたかったから、

ラップをしてる友達

スケボーしてる友達

に声をかけた。


普段は歌詞がいらないバンドをやっているから、何度もループするフレーズに合わせて言葉を捻り出していく二人の様が不思議で、可笑しくみえた。

「生きる意味」とか「俺たちのリアルで」なんて普段の作曲時にはまるで考えもしないことだから。


インストバンドをやっている理由として、

メロディを書く事に苦手意識があるのが一番だけど、実はそれ以上に「世の中に訴えたいこと」が無いために歌詞が書けないから、というのがある。

フィクションで物語を作るのも手だけど、言葉にしてその尻尾を掴まれることに気恥ずかさがあるし、

(友人、知り合いの歌詞を見て小っ恥ずかしくなる事もしばしば)

「僕は僕でいいし、他人は他人で良し」の精神だからわざわざ言葉にできないのだ。


そんな風に思っていたけど、ループしてる曲に合わせてなんちゃってフリースタイルをやってみた時に、想像よりも言葉が繋がって転がって、意外と言いたいことがある事に気がついた。

帰宅して数時間経った今は何を言ったか綺麗さっぱり忘れている。

思い返しても大したことは言ってないだろうから、何かディレクション用に書き並べてみようかなー、なんて思うけど、

それでもやっぱり自分自身の切り取りを宣うことは気恥ずかしいから、フィクションの人影を語呂良く転がすことに意識がいきそう。


何気なく放り投げられた言葉に新しい響きを覚えたから、次回の打ち合わせがちょっと楽しみになっている。


メモ

もうすぐ日が暮れる

そっとタバコに火をつける

フィルター越しに伝わる熱

スピーカー越えて伝える説

明いらず俺たちの関係性

徐々に冷え込む気温

人も消えるぜネオン

虚しく光ることもない田舎町

ここから見えるのはよく見知ったイオン


このメモすら恥ずかしい。

ダサいと思われるのが怖い?



2021年2月6日までに思ったこと

常々感じることで、「怒る」とはなんとエネルギーのいることか。

 

この頃の世相もあって、「〜の対応が悪い」とか「〜は間違っている」とか、

当事者でなくてもその「怒り」を見る機会が増えているような気がする。

身の回りにある井戸端会議でもワイドショーの情報であぁだこうだと盛り上がり、

文句を言って時間ばかりが過ぎている。

ムダだなぁ、なんてよく思う。

かく言う自分も、後になってみると恥ずかしくなるほどに些細なことで声を荒げたりもするけど、そこまで怒る機会は多くないつもりでいる。

(洗い物がシンクに置きっぱなし、とかそんなことは気になる。)

 

「怒る」ことは「期待をする」ことなのかなぁ、とぼんやりと思っている。

 

自分も何かを得られるだろう、とか、他人ばかりずるい、とか。

もらえると思っていたものがもらえなければ、怒るんだろうな、と。

貰えないなら、それはそれで。となってしまうのは自立心なのか諦めなのか。

我ながら、可愛げがないな、と感じてしまう。

 

色んな大きな流れの中で、会社の経営とか仕事の進め方、果ては国家の進み方なんていうのは、今の僕にはとても手に負えないし、考えられない規模の話だと感じている。

だから怒るに怒れない。なぜなら代替案の提示ができないから。

そりゃもちろん出世したいし、バリバリ仕事したいし、豊かになりたいし、

明日も明後日も僕は僕でありたい。

でも何も偉そうなことは言えない。

だから今の流れの中で、自分ができることを粛々としていくしかない。

もっと色んなことを見て、感じていかないといけない。

 

吐き出すことで、新しいものを取り入れるスペースを作る。

そのために書き連ねて見たこの文章こそ「怒り」の発現であり、

エネルギーの浪費になっている。

でも、書いてみたかったから良いよね。